翻訳と辞書
Words near each other
・ ビル・アケムの戦い
・ ビル・アケム橋
・ ビル・アトキンソン
・ ビル・アバーナシー
・ ビル・アブスタイン
・ ビル・アマーソン
・ ビル・アンダーソン
・ ビル・アンダーソン (曖昧さ回避)
・ ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団
・ ビル・アーウィン
ビル・アーウィン (プロレスラー)
・ ビル・アームストロング
・ ビル・イングリッシュ
・ ビル・イーディ
・ ビル・イーディー
・ ビル・ウィザース
・ ビル・ウィザーズ
・ ビル・ウィルソン
・ ビル・ウィーズリー
・ ビル・ウェステンホファー


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ビル・アーウィン (プロレスラー) : ミニ英和和英辞書
ビル・アーウィン (プロレスラー)[びる]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ビル : [びる]
 【名詞】 1. (abbr) building 2. bill 3. (P), (n) (abbr) building/bill
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ビル・アーウィン (プロレスラー) : ウィキペディア日本語版
ビル・アーウィン (プロレスラー)[びる]

ワイルド・ビル・アーウィン"Wild" Bill Irwin、本名:Barney William Irwin1954年9月17日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーミネソタ州ダルース出身(ジョージア州アトランタ出身ともされる〔『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P61(2002年、日本スポーツ出版社)〕)。
西部のアウトローをイメージしたカウボーイヒールとして、テキサス州ダラス地区を主戦場に活動した。兄のスコット・アーウィンとのタッグチームロング・ライダーズThe Long Riders)での活躍も知られる。
== 来歴 ==
デビュー後の1970年代後半は、ジム・バーネットの主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングで活動。アブドーラ・ザ・ブッチャースタン・ハンセンアーニー・ラッドマスクド・スーパースターイワン・コロフオレイ・アンダーソンリック・フレアーなどの大物ヒールジョバーを務めながら、ラフファイターとしてのキャリアを積んだ。
1979年より中西部NWAセントラル・ステーツ地区に転戦し、翌1980年1月に全日本プロレスの『新春ジャイアント・シリーズ』に初来日。ビル・ロビンソンブルーザー・ブロディアンジェロ・モスカが外国人勢の主力となった同シリーズにおいて、同じく初来日のダッチ・マンテルと共に荒削りながらイキのいいラフファイトを披露〔アーウィンとマンテルは、共に牛追い鞭を小道具に用いるアウトロー系ヒールであり、1985年の上期にフロリダで "Master of the Bullwhip" と銘打たれた抗争を展開したことがある(The Archives of Championship Wrestling from Florida )。〕、以降も全日本には度々来日することとなった。
1980年の下期からは、試合スタイルの荒っぽさから当時「無法地帯」と呼ばれていたテネシー州メンフィスCWAに参戦。ジミー・ハート率いるヒール軍団「ファースト・ファミリー」に加入してジプシー・ジョーキラー・カール・クラップともタッグを組み、ジェリー・ローラービル・ダンディージミー・バリアントらと流血の喧嘩試合を繰り広げた。同年8月11日には、バリアント、ポール・エラリングエディ・ギルバートソニー・キングリッキー・モートンなど8選手が参加のワンナイト・トーナメントに優勝し、AWA南部ヘビー級王座を獲得している〔。
1981年の末よりテキサス州ダラスのWCCWを主戦場とし、アンドレ・ザ・ジャイアントともシングルマッチで対戦。1982年8月にはアル・マドリルからNWAテキサス・ヘビー級王座を奪取、以降デビッド・フォン・エリックを相手に同王座を争った。同年9月12日にはキングコング・バンディと組んでケビン&ケリー・フォン・エリックを破りNWAアメリカン・タッグ王座を獲得したが、11月26日にファビュラス・フリーバーズに奪取されている。1983年下期からはスカンドル・アクバマネージャー覆面レスラースーパー・デストロイヤー2号(''The Super Destroyer #2'')に変身、1号の兄スコット・アーウィンとのスーパー・デストロイヤーズで活動した。1984年2月にはスーパー・デストロイヤーズとして全日本プロレスに来日、2月26日に大阪府立体育館にて、阿修羅・原&石川隆士アジア・タッグ王座に挑戦した。
1984年下期、ハーレーダビッドソンにまたがったバイカー系タッグチームのロング・ライダーズ(''The Long Riders'')をスコットと結成。11月18日にジョージア州アトランタオムニ・コロシアムで行われたトーナメントの決勝でブラッド・アームストロング&ジャック・ルージョー・ジュニアを下し、空位となっていたNWAナショナル・タッグ王座を獲得した。翌1985年は地元ミネソタAWAに参戦し、ロード・ウォリアーズスコット・ホール&カート・ヘニングと抗争を展開。同年9月28日にシカゴコミスキー・パークで行われたビッグイベント "SuperClash" ではハーリー・レイスとトリオを組み、日本から遠征してきたジャイアント馬場ジャンボ鶴田天龍源一郎のチームと対戦している。
スコットが病気のためリングを離れた1986年の下期からはカウボーイ・スタイルのシングル・プレイヤーに戻り(スコットは1987年9月5日に死去)、古巣のWCCWやビル・ワット主宰のUWF、初期のWCWなどを転戦〔(1987年4月には当時WCCWやUWFとの提携ルートを持っていた新日本プロレスへの来日が発表されたがキャンセルになっている)。1989年11月には、WCCW時代の盟友テリー・ゴディのパートナーとして全日本プロレスの『世界最強タッグ決定リーグ戦』に来日。戦績は芳しくなかったものの、牛追い鞭を振り回してスタン・ハンセンに喧嘩を売るなど変わらない無法ぶりを見せた。
1990年代前半はWCCWの実質的な後継プロモーションであるダラスのGWFで活動。1993年2月21日にはWCWのPPV "SuperBrawl III" に出場し、デイビーボーイ・スミスのWCWデビュー戦の相手を務めた。同年6月と翌1994年4月には、ケンドー・ナガサキが主宰していたNOWに来日している。1996年からはアイスホッケーのダーティー・プレイヤーをギミックとしたザ・グーン(''The Goon'')を名乗り、WWFのミッドカードに単発出場。エルボーイングやチャージングなどホッケーの反則行為を攻撃手段に、ベテランのジョバーとなってジ・アンダーテイカーとも対戦した。
1999年6月と2000年9月には日本のインディー団体「世界のプロレス」に来日。以降もダラスのインディー団体に参戦しつつ、ザ・グーンのキャラクターでWWEに時折登場しており、2001年4月1日の "WrestleMania X-Seven" のギミック・バトルロイヤルや、2007年12月10日の "RAW 15th Anniversary" でのスペシャル・バトルロイヤルなどに出場した。
近年はホームタウンのミネソタ州ダルースにてレスリング・スクールを運営していると伝えられている〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ビル・アーウィン (プロレスラー)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.